ディエゴ・コラレス


ディエゴ・コラレス

ディエゴ・コラレス(Diego Corrales 1977年8月25日生)
 [アメリカ・プロボクサー]


 サウスカロライナ州コロンビア出身。1996年3月19日に19歳でプロデビューする。1997年3月14日にはIBAコンチネンタルスーパーフェザー級タイトルを獲得。その後も、順調に勝利を重ね無敗のまま1999年10月23日にはロベルト・ガルシア(当時32戦無敗)を7回TKOで破りIBFスーパーフェザー級タイトルを獲得した。

 さらに3度目の防衛戦となる2000年3月18日のデリック・ゲイナー戦で3回TKO勝利し、IBA世界スーパーフェザー級王座も獲得した。IBFのタイトルを3度防衛した後返上し、WBC同級チャンピオンのフロイド・メイウェザー・ジュニアに挑戦する。しかしメイウェザーのスピードにまったくついていけず、計5度のダウンを奪われての10回TKOで敗れてしまい、タイトル奪取はならなかった。この試合の数ヶ月後、コラレスは妻への暴行罪で逮捕、収監された。この私生活のトラブルのせいで2年近くのブランクを作ってしまった(妻とは離婚)。

 2003年に復帰した後は、ノンタイトル戦を4試合挟み、2003年10月4日にIBF指名挑戦権をかけてホエール・カサマヨールと対戦するが、ダウンの応酬の末、コラレスの負傷(口の中を2箇所切った)による6回TKOで敗れてしまう。しかし、翌2004年3月6日のカサマヨールとの再戦では2-1僅差判定でコラレスが勝利し、空位のWBOタイトルとIBAタイトルを獲得した。

 カサマヨールとのリターンマッチに勝利した後、コラレスはライト級に階級を上げる。2004年8月7日には35戦全勝の王者、アセリノ・フレイタスに挑戦し、合計3度のダウンを奪い10回TKOで勝利。WBO世界ライト級王座を獲得し、2階級制覇に成功した。さらに2005年5月7日にはWBC王者のホセ・ルイス・カスティージョと王座統一戦を行い、10ラウンドに2度ダウンを奪われながらも立ち上がって逆にカスティージョをKOするという大逆転勝利でWBCのタイトルも獲得した。しかし、この試合はコラレスがダウンした際に故意に2度もマウスピースを吐き出して時間稼ぎをしたことと、レフェリーの試合を止めるタイミングが論議を呼び、同年10月8日にリターンマッチが組まれた。ところが、試合前日の計量でカスティージョが体重オーバーしたためにノンタイトル戦になってしまった(WBO王座は再戦の前に返上した)。この試合では、コラレスが体重オーバーのカスティージョの強烈な左フックで4回KOで敗れてしまう。カスティージョとは2006年6月3日にラバーマッチが組まれたが、またしてもカスティージョが前回に続き減量に失敗し計量をパス出来なかった。それに激怒したコラレス陣営が対戦を拒否し、試合は中止となった。コラレス陣営はカスティージョに対し、試合中止で受け取れなかったファイトマネーの損害賠償訴訟を起こした。WBCタイトル防衛戦として2006年10月7日に予定されたホエール・カサマヨールとの試合では、今度はコラレスが計量オーバーし、試合前にWBC王座は剥奪された。この剥奪と同時に暫定王者デビッド・ディアスが正規王者へ昇格となったため、試合に12回判定(3-0)で勝ったカサマヨールはWBC世界ライト級の暫定王者となった。

 2007年、ライト級では体重苦のコラレスは、一気に2階級上のウェルター級まで上げることを企てる。初戦に選んだのは、前年12月にWBO世界ウェルター級王者、アントニオ・マルガリートに挑戦したばかりのジョシュア・クロッティだった。2007年4月7日、クロッティと対戦したコラレスは、2度のダウンを奪われた末に10回大差判定(0-3)で敗れた。ほぼ一方的な敗戦だった。これで3連敗となり、引退も囁かれたコラレスだが、試合後すぐに再起を宣言した。しかし、これがコラレスの最後の試合となってしまった。

 2007年5月7日夜、ラスベガスでオートバイを運転中に前の自動車を追い越そうとした際に接触し衝突事故のため死去。コラレスの体内からはアルコールが検出され、血中のアルコール濃度はネバダ州の法定制限である0.08パーセントの3倍以上にあたる0.25パーセントだった。

 2007年5月7日死去(享年29)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ