イアン・カーティス


イアン・カーティス

イアン・カーティス(Ian Curtis 1956年7月15日生)
 [イギリス・歌手]


 両親と4歳下の妹との4人家族。中産階級の家庭で、家族仲は良く、本を読むのが好きなおとなしい少年だった。文学と歴史、そして特に音楽に熱中するようになり、デビッド・ボウイやイギー・ポップ、ルー・リードに憧れ、高校時代には音楽で成功することへの志を強く持つようになる。1975年、19歳で高校時代のガールフレンド、デボラと結婚。公務員となり、障害者のための職業安定所で勤務する。

 バンド結成を目指し、メンバー探しにマンチェスターのパブやクラブを巡る中で、バーナード・サムナーとピーター・フックに出会い1977年に初めてステージに立つ。1978年初頭、バンド名を「ワルシャワ」から「ジョイ・ディヴィジョン」に変更する。12月、ロンドンで初ライブを行うが、観客は30人程度しかいなかった。落胆したカーティスは、この時初めて、帰路の車の中で激しいてんかんの発作を起こす。以後、頻発する発作に悩まされるようになる。

 1979年4月、一人娘のナタリーが誕生。6月にファースト・アルバム『アンノウン・プレジャーズ』をリリース。低予算で宣伝費は抑えられていたが、初回限定5000枚は即完売、音楽雑誌はこぞって絶賛し、パンク以後の音楽界の流れを方向づけるグループとして注目される。

 1980年、ヨーロッパ・ツアーを経て、3月、セカンド・アルバム『クローサー』のレコーディングを終える。4月には、最大のヒット曲となる「ラブ・ウィル・テア・アス・アパート」をリリース。アメリカ・ツアーも決定し、すべてがバンドの成功へ向けて急速に動いていた。しかし、ハードなスケジュールをこなす中での病気の悪化、それによってバンドの重荷になっているという自責の念、ロックスターであり続けることへのプレッシャー、妻と愛人の間での苦悩などから、精神的にも肉体的にも追い詰められ、4月7日にてんかんの治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こす。以後自宅には戻らずメンバーや関係者の家を転々とし、最終的に実家の両親のもとへ戻る。

 5月17日、妻デボラと離婚の話し合いをするため自宅へ戻る。離婚についての話し合いは決着しないまま、デボラは娘を連れて自分の両親の家へ帰る。自宅に一人残り、18日未明に、台所で首を吊り自殺。18日の午前11時ごろ、戻ってきたデボラにより、倒れているところを発見される。遺書はなく、デボラにあてた手紙があった。また、抗てんかん薬を飲んだ跡があったこと、ターンテーブルには、イギー・ポップの『イディオット』がかかったままであったことがわかっている。

 ステージでの激しく痙攣した動きと取り憑かれたような表情で、観る者に強烈な印象を与えカルト的な人気を得たが、それらのパフォーマンスはてんかんの発作の前駆症状に酷似していた(ステージ上でそのまま発作を起こしたこともあった)。気性の差が激しく、実生活でも、普段は穏やかで優しく、礼儀正しいが、突如逆上して激情を露わにすることがあった。てんかんの治療で大量の投薬を受けるようになってから、とくに躁鬱の差が激しくなり、てんかんの薬が結果的に精神状態に悪影響を及ぼしたのではないかと指摘されている。また、周囲に気を遣い、周囲に合わせて無理をするところがあり、期待に応えられないことがプレッシャーになったのではないかとメンバーは語っている。

 1980年5月18日死去(享年23)


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