ナイル・キニック


ナイル・キニック

ナイル・キニック・ジュニア(Nile Clarke Kinnick Jr. 1918年7月9日生)
 [アメリカ・アメリカンフットボール選手]


 アイオワ州エイデル出身。両親が教育熱心でクリスチャン・サイエンスを学んだ彼は規律、ハードワーク、高いモラルを身につけた。スポーツにも興味を持つようになり、中学時代はアメリカンフットボール、バスケットボールの花形だった。高校1年の時、彼のチームはフットボールで無敗でシーズンを終えた。またバスケットボールでは485得点をあげて地区の決勝試合まで進んだ。高校2年時に家族はネブラスカ州オマハに引っ越した。高校3年の時、彼は州のファーストチームにアメリカンフットボールとバスケットボールのそれぞれで選ばれた。

 彼は優秀な学生であり優秀なリーダーであった。1935年に高校を卒業することはできたが両親は大学に入るための準備を十分にするために卒業を1年遅らせた。ミネソタ大学ツインシティー校に進学することも考えたがアイオワ大学を選んだ。1939年、アイオワ大学はシーズン成績を6勝1敗1分としてAPランキング9位で終えた。キニックはわずか31回のパスで638ヤードを獲得し、11のタッチダウンを決めた。そしてランでも374ヤードを獲得した。またキックオフリターンでは全米トップの337ヤードを稼ぎインターセプトも8回行った。チームのタッチダウン19のうち、彼があげたタッチダウンは16(パスで11、ランで5)、130得点のうち107得点にからんだ。また420分中402分に出場した。大学記録を14塗り替え、そのうち今現在でもいくつかの記録が破られていない。シーズン終了後、彼は多くの賞を受賞した。1939年11月28日にはフットボールで最も名誉ある賞、ハイズマン賞を受賞した。1939年に彼が受賞したハイズマントロフィーはアイオワ大学の殿堂に飾られている。

 彼はいくつかのプロチームから魅力的なオファーを受けたが断っている。NFLのブルックリン・ドジャースにドラフトで指名されチームオーナーは年俸1万ドル、1試合出場するごとに1000ドルの出場給を提示したが彼はアイオワ大学のロースクールに進学した。ロースクールに通い始めて1年ほど経過した1941年8月に彼は海軍航空隊に入ることを決意した。彼は戦闘機のパイロットとしての訓練を受け、1943年5月末に空母レキシントンに配属された。

 1943年6月2日、空母レキシントンからの発艦の訓練をしていた彼のグラマンF4Fワイルドキャットはベネズエラのパリア湾沿岸の海岸に墜落した。燃料が漏れ出した機体を発艦する飛行機で混雑していた飛行甲板に着艦することもできず1時間以上飛行を続けた後のことであった。この際、緊急着水を試みたが失敗し亡くなった。8分後にレスキューボートが到達したが油しか発見されなかった。彼の遺体は見つからなかった。

 彼は1951年にカレッジフットボールの殿堂入りを果たし、1972年にはアイオワ大学のスタジアムはキニック・スタジアムと改称された。 

 1943年6月2日死去(享年24)


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