島田清次郎


島田清次郎

島田清次郎(しまだせいじろう 1899年2月26日生)
 [小説家]


 石川県生まれ。早くに父を亡くし、母の実家で育つ。母の実家は金沢市内の茶屋街で貸座敷も営み、この環境が後の島田の文学と性格に影響してくる。茶屋街で嫌々客をとらされる女性達や貧乏故に恋愛も許されない若者を身近に見ながら一方で政治家・官僚などがロクに政治を行わずに貧民が日本に多くいることへの憤りを募らせたことが代表作となる『地上』の執筆動機となる一方で、女性関係に奔放で複数の女性を「モノ」のように扱う性癖も持ち、後述するように告訴騒ぎにまで発展する様になる。

 野町小学校を優秀な成績で卒業し、石川県立金沢第二中学校に進学。ここでも良い成績をおさめていたが、教師に対して反抗的な態度をとることも多く停学処分を数回受けている。13歳の時には自分の天才が世に認められないとの理由で、自殺を図った。幸いにも未遂に終わったものの、自ら「天才に学校の器が合わない」と感じて東京の明治学院普通部に転入。ところが祖父が投資による失敗から失踪して金銭的に苦境に立たされたことから金沢第二中学校に復学、更に金沢商業本科に転校する。この頃から文学に熱中するが、会社員にしたい叔父の怒りを買った挙句に学費未納により退学処分となる。このため母と共に石川県でも最低の貧民街に暮らしながら、島田に好意を持っていた宗教家暁烏敏の紹介で『中外日報』で執筆者として糊口を凌いでいた。

 1918年夏から書き始めた自伝的小説『地上』の原稿を中外日報主筆、伊藤証信の推薦により生田長江に送り絶賛され、長江の紹介で、新人の書き下ろしをシリーズ的に出版していた新潮社から出版。これが実質的なデビュー作となり、実売部数50万部とも言われ、江馬修の「受難者」、賀川豊彦の「死線を越えて」と並ぶ大正期の代表的なベストセラーとなる。『地上』の成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを思いこんでいたところに世間からの高い評価を受けて、傲慢な振る舞いをすることが多くなった。加えて社会主義運動・理想社会思想に傾倒し、ソビエト的な理想社会主義を掲げ全国をアジテーションして周る活動を行いながら『地上』を第4部まで出版。この頃、堺真柄に好意を持ち婚姻を申し込もうとしたが、父親からはぐらかされて相手にされなかった。印税が多く入るようになって生活も豪奢となった上に奔放な女性関係も文壇関係者から嫌われる原因となり、次第に文壇では孤立していった。それでも長江や徳富蘇峰など、島田の才能を高く評価する向きも少なくなかった。

 1922年に出版社の薦めで船でアメリカやヨーロッパを周る旅に出発。アメリカではクーリッジ大統領とも面会、国際ペンクラブ初の日本人会員となった。帰国後に『地上』第5部として、長編小説『改元』を出版。海外視察後の高揚・膨張した覇気のもと、世界革命・宗教改革を標榜する一方で、周囲の無理解や嘲笑に苦しみ焦燥し、益々傲慢な振る舞いが狂的なまでにエスカレートし、生田ら数少ない文壇での支持者もこの頃には離れていった。人気に幻惑された島田はファンレターをくれた海軍少将の娘・舟木芳江を半ば強引に誘いだし、泊まりで葉山に旅行に向かうが、これを監禁・陵辱・強姦を行ったとして舟木家側が告訴。幸いにも恋文の存在や徳富蘇峰らの証言で無実だということになり告訴も取り下げられたものの、この事件は大きくマスコミに取り上げられ理想主義を掲げた時代の寵児が女性スキャンダルで汚れ、一気に凋落することとなった。そのため島田の作品は全く売れなくなり、出版社からも出入りを禁じられる。

 1924年7月末夜半、巣鴨地蔵尊に近い路上を池袋に向け人力車で通行中、折りしも爆弾テロ警戒中の警察官に職務質問され、帝国ホテル従業員に対する暴言、並びに日比谷公園内で右翼壮士により暴行を加えられ血だらけとなったことなどを口にしたため、巣鴨署に拘引。精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容された。収容中に統合失調症は回復したと言われるが、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。1930年4月29日に肺結核で死去。

 1930年4月29日 死去(享年31)


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